• シェア
  • twitter

AOKIグループヒストリー4 余剰在庫二万着の教訓と「人間本来無一物」

中川 綾子 中川 綾子

こんにちは、がんばる社長のサポーター中川綾子(なかがわあやこ)です。
今回はAOKIグループヒストリーの続編です。
創業まもないAOKIは、経営理念も確立し、チェーンストア理論を学びました。(グループヒストリー2参照)
バラのマークの石堂店もできました。(グループヒストリー3参照)
その次の段階として「スーツの流通革命」を進行するため、売場の確保に先行し、二万八千着のスーツを発注しますが、見通しの甘さゆえ、二万着の大量在庫を抱えてしまいました。
在庫過剰という大きな危機を迎えたAOKI。しかしあるご住職との出会いがそのピンチを救いました。

目次

  • 二万着の在庫
  • 飯山正受庵、酒井盤山師の教え
  • メーカー様への謝罪行脚

 

二万着の在庫

スーツのオリジナルブランド開発への機は熟しつつありました。オリジナルブランド開発、すなわちAOKIが「製造」にまで関与するならば、適正なロットを発注する必要がありました。さらにそのロットを売り切るための「売り場」を持たなくてはいけません。当時は篠ノ井駅前店、長野駅前店、石堂店の3店舗のみ(すでに須坂店は閉店)。しかし売場の確保に先行して、二万八千着のスーツを発注してしまいました。「スーツの流通革命」その第一号の記念すべきオリジナルブランドのマークが、胸につけた真紅のバラでした。

製品ができあがるのが一年後。その一年の間に二万八千着売り切る店を作ってしまおうということになったのです。一店舗年間二千着の売上数として、計算上では十四店舗。つまり一挙に十一店舗の出店が必要でした。しかし1973年から複数回にわたって起きた「オイルショック」。主要産油圏である中東諸国に紛争が相次ぎ、原油価格が高騰。すでに多くを石油に依存していた先進国は、生産・消費・雇用に急ブレーキがかかりました。当然日本にも飛び火します。消費は冷え込みました。

そして結果、AOKIの新規出店は四店舗のみ。1977年の夏には、つまり二万着のスーツが売れ残ってしまいました。今までもピンチの連続でしたが、今回はニッチもサッチもいかない状況でした。夏が過ぎて、秋になってもいっこうに涼しさは訪れず、お客様の足は遠のくばかりでした。耐えるしかすべがなく、そのうえメーカー様からは「大丈夫ですか」の連呼。会長と副会長のお二人は、すっかり意気消沈してしまいました。

 

飯山正受庵、酒井盤山師の教え

「二万着の在庫」を抱えたAOKIが、なぜその危機を脱出することができたのか。それは会長とあるご住職との出逢いがきっかけでした。在庫のことで悶々と考え込む会長は、ある日ご近所の方のお誘いで長野県飯山市の正受庵に座禅に出掛けたのです。正受庵は飯山市の臨済宗妙心寺派の寺。江戸中期の禅僧で臨済宗中興の祖といわれる白隠(1685~1768)の師である正受老人道鏡慧端(1642~1711)の草庵。母とともに正受老人は、この草庵で無一物の座禅三昧の生涯を送ったといわれています。明治初期に廃寺となりますが、山岡鉄舟(1836~1888)らによって再興されます。寺には以下の遺偈も残されています。

「座死  末後一句  死急難道  言無言言  不道不道」(座して死す  末後の一句  死急にして道ひ難し  無言の言を言とす  道はじ道はじ……とつぜん死というやつがやってきたので、末期の一句というやつを言おうと思ったが、 何もないよ、無言の言を言とした。道えず、道えず)

当時のご住職は酒井盤山師。座禅、そして約1時間の般若心経の講和も、会長は上の空、頭の中は資金繰りでいっぱいだったと言います。そんな気持ちを見透かしたように、酒井盤山師、「まあ、難しい話はおいといて・・・。いちばん優れた人とは、人間本来無一物と悟ったひとなのだ。そして世の中の人のためになることを大きく掲げ、常にまだまだと精進することが大切なのだ。死んだと思えば怖いものは何もないじゃないか。お札だってただの紙切れさ、ワッハッハッハッ!」

瞬間、会長の心の中のこだわりのようなものがスーッと落ちました。つまり今までのこだわりは全て捨てよということでした。もう失うものは何もない。会長はすっかり楽になったと後で言います。以来、盤山師は会長、副会長の心の支えとなりました。会長が仕事上も個人的にも欠かせず友を亡くした際に、「亡くなった人の魂はどうなるのか。亡くなった人に何をしてあげればよいのか」という問いを発したところ、「青木、おまえもいつかは死ぬ。どうにもならないことに心を奪われてはならぬ。放っておいて商売に励め。ワッハッハッハッ!」とお答えになったそうです。

メーカ様への謝罪行脚

酒井盤山師の教えを受け、会場、副会長は商品担当責任者とともに、メーカー様30社に足を運び、謝罪行脚を行いました。誠心誠意謝ったのです。謝罪したうえで、返品ではなく1年間だけ預かってくださるようにお願いしました。「来期は必ず売りますから、1年間預かって欲しい」ほとんどのメーカー様が、AOKIの将来性にかけてくださいました。「返しっぷりがいい。大胆だ。この会社は伸びる。とことん付き合う」と誉められているのか、わけのわからない励ましのお言葉や、「AOKIとは一生付き合う。何も言うな。頼む」と自ら手を差し出してくださる方もいらっしゃいました。

こんなエピソードもあります。あるメーカー様に謝りに伺ったとき、ちょうどスーツを満載したトラックが荷卸しの最中でした。会長、副会長は顔から火がでる思いだったそうです。六千着のうち、四千着のお預かり依頼。それでも快く了承をいただきました。メーカー様もそれぞれ苦しい。その中でもご協力いただいたのでした。

「スーツの流通革命」・・・言葉で言うのは簡単です。しかしその実践のむずかしさを、身を持って学びました。「二万着の在庫」は見込み違いでしたが、メーカー様との固い絆と「計画発注」という原点を生み出したのも事実です。また生涯の師となる酒井盤山師との出逢いも生みました。結果得たものも大きかった出来事となったのです。

これまでのAOKIヒストリーやエピソードはこちらからご覧いただけます。今回もお読みいただきまして、まことにありがとうございました。

  • シェア
  • twitter
The following two tabs change content below.
中川 綾子

中川 綾子

AOKIグループ 寿本舗株式会社 執行役員社長
1998年、まだ紳士服のAOKIのみだった現AOKIホールディングスに入社。紳士服のAOKI店舗で販売を経験後、ブライダル事業のアニヴェルセル表参道で販促に従事。初めて間近で創業者の青木擴憲(あおき ひろのり)に接したプレゼン中、若気の至りと緊張で周りが静まり返るようなことを発言。それが青木に覚えられるきっかけとなり、本社の広報室へ異動。広報として青木とコミュニケーションを取りながら8年間従事した後、新規事業に携わり現在に至る。
間近で青木擴憲(あおき ひろのり)会長、青木寶久(あおき たかひさ)副会長の話を伺い、叱咤激励をいただいてきたことで、経営者を志すようになった。
PAGE TOP
LINE it!