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AOKIグループヒストリー5~満を期しての、首都圏への進出~

中川 綾子 中川 綾子

こんにちは、がんばる社長のサポーター中川綾子(なかがわあやこ)です。1979年の長野南高田店の誕生は、その後のAOKIグループ成長の大きな転換点となりました。長野南高田店のオープン以降、同様の標準型店舗を次々にオープン。店舗とともに商品力の強化も図りました。あるイタリアのデザイナーとの出逢いです。

目次

  • 東京進出第1号、虎ノ門店の開店そして撤退
  • 相次ぐ首都圏郊外への出店
  • ミラノの一流デザイナーとの提携

東京進出第1号、虎ノ門店の開店そして撤退


話しは、1979年の長野南高田店誕生より少し遡ります。郊外型の店舗展開にまだ踏み切っていなかった1975年から1977年ごろ、AOKIは首都圏(=東京)に進出するべきか真剣に検討していました。当時「インフレ飛んでけ」がキャッチコピーのある紳士服専門店が、一世を風靡していました。虎ノ門店のその紳士服専門店は、約40坪という狭さでありながら、店内はビジネスマンでいっぱい。39,000円のスーツが、割引で19,800円や29,800円という安さで、消費者の心をつかんでいました。平日というのに、大変な賑わいをみせていたのです。ちょうどその隣のビルの一角があいており、その物件を借りることができました。こうして1977年、首都圏第1号の虎ノ門店をオープンさせることができたのです。商品は最高級の素材を手当てし、ロットをまとめて発注することでコストを下げ、百貨店で1着60,000円ほどのスーツを、半額の30,000円ぐらいで販売しました。隣の専門店より若干高くても、商品のグレードで充分な競争力を得たのです。開店から半年・・・計画通り好調でした。隣の専門店と同じぐらい賑わったのです。しかし1年が経過すると、状況は大きく変わりました。安さだけでは長続きはしなかったのです。「まだ都心でやるべきではない」と判断し、2年間の営業で撤退を決断しました。東京1号店は結果的には2年で閉店しましたが、2つの意味で前向きな撤退でもありました。1つは、商品力がお客様に認められたことと、AOKIのブランド力を高める新しい商品の開発を急がなければならないと感じたこと。2つ目は、首都圏の店舗展開戦略でも、都心よりはまず郊外ということを認識したことでした。

相次ぐ首都圏郊外への出店そして全国展開へ

都心の虎ノ門店と同時に、やはりこれからは郊外の時代と考え、東京・横浜のベッドタウン、神奈川県海老名市に郊外型標準店舗をオープンしました。売場面積150坪、郊外型第1号の長野南高田店と全く同じスタイルの店舗です。長野南高田店が開店した翌1980年のことでした。開店当日の売上は計画以上。地元のお客様からの絶大なるご支持を得ることができたのでした。この海老名店が、首都圏における本格的なチェーンストア展開の口火となり、マスストアーズ・オペレーションと首都圏戦略の見通しがついたと判断することができました。翌年には、同じく東京・横浜のベッドタウンである神奈川県・平塚市に出店を決定。長野南高田店開店時創設された店舗開発部の担当者と現会長・副会長自ら平塚市に何日も泊まり込み、平塚市の地図と睨めっこし、そして来る日も来る日も市内外を隅々まで車で走り回りました。その甲斐あってようやく好立地の土地を見つけました。しかしオーナー様が、なかなかAOKIを信用してくれません。当時のAOKIは首都圏では全くと言っていいほど知名度はなく、長野市から出てきた聞いたこともない紳士服屋さん。関東には海老名に1店舗だけあるという状況です。しかしながら、熱意と周りの方の手助けで、無事平塚店も開店することができました。もちろん開店は大成功。そして今日まで、海老名店と平塚店は神奈川県の郊外型店舗の代表としてゆるぎない地位を築いています。海老名店と平塚店の開店後、1984年には横浜港南台店(横浜市)、市原店(千葉県市原市)、木更津店(千葉県木更津市)と次々に首都圏に出店していきました。

首都圏と並行して、長野・北陸エリアにも標準型店舗を積極出店。海老名店オープンの同年に、高岡横田店(富山県高岡市)、翌1981年には上田産業道路店(長野県上田市)、佐久店(同佐久市)、富山城南店(富山県富山市)、1982年には飯田座光寺店(長野県飯田市)が開店しました。いずれの店舗の大盛況。首都圏と長野・北陸エリアでのマスストアーズ・オペレーションが、徐々にカタチを成しつつありました。

ミラノの一流デザイナーとの提携

南高田店と海老名店の開店により、マスストアーズ・オペレーションが本格的にスタート。つまり売り場ができました。適正ロットで商品を発注する仕組みもできました。糸から作ることもできるようになりました。「スーツの流通革命」を実行するなかで次に大事なことは、良いものをつくるということです。では良いものをつくるにはどうしたらよいか。世界中の産地を調べ、超一流の場所を探しました。そこでルネッサンス発祥の地、イタリアに絞りました。おしゃれな男性、女性をくどく男達…。そんな女性をくすぐるイタリア人男性の男臭さが漂うミラノこそ、メンズスーツのメッカでした。歴史的にもレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロからはじまり、イタリア芸術は超一流。そうした風土で培われた「巧みの技」は天下一品です。そしてそのころミラノでは、ひとりの若手デザイナーが注目を集めていました。仕立ては生きざまの投影という持論の持ち主で、「ほかにはないもの」を作るために「工業化することはできない」というこだわりが製品の随所に主張されていました。最高級の生地とハンドメイドしか、彼は選びません。

AOKIとそのデザイナーとの出逢いは1978年。フィレンツェで開かれる、イタリアの一流ファッションが集まる展示会ピッティ・ウォモの会場でした。会長の青木擴憲(あおき ひろのり)が彼のショップへ赴いたとき、商品説明や商品動向調査をしている姿も見て、この姿こそが物づくりにこだわる本当のプロフェッショナルであると、大変感激したそうです。そして1981年11月20日、正式に契約。翌1982年より販売を開始しました。

「私は今日の時代に最もふさわしいファッションを、私のノウハウのすべてをかけて、日本の皆さまに提供したいと思います。私の作品は、最高の素材を使い、ハンドワークを駆使したソフトテーラリング。そしてイタリアンモデルの絶妙なバランスで、きっと日本の皆さまに満足していただけるものと確信します」

企画者自身が一流のものを見る、触る、着る、試す。その中から感性を一流の水準に磨きあげる。このAOKIのポリシーがミラノのデザイナーとの出逢いを生み、物づくりの新たな境地を開いていきました。

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中川 綾子

中川 綾子

AOKIグループ 寿本舗株式会社 執行役員社長
1998年、まだ紳士服のAOKIのみだった現AOKIホールディングスに入社。紳士服のAOKI店舗で販売を経験後、ブライダル事業のアニヴェルセル表参道で販促に従事。初めて間近で創業者の青木擴憲(あおき ひろのり)に接したプレゼン中、若気の至りと緊張で周りが静まり返るようなことを発言。それが青木に覚えられるきっかけとなり、本社の広報室へ異動。広報として青木とコミュニケーションを取りながら8年間従事した後、新規事業に携わり現在に至る。
間近で青木擴憲(あおき ひろのり)会長、青木寶久(あおき たかひさ)副会長の話を伺い、叱咤激励をいただいてきたことで、経営者を志すようになった。
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